七角山(ななかどやま)は阿仁前田地区の阿仁川岸(右岸)にそびえる三角形の山です。「前田富士」の別名があります[注1]。
毎年、森吉山岳会の正月登山は七角山に登ります。元日の9時から登り始めるようですが、トレースがありますから、だれが何時に行ってもいいのです。
前田中学校時代の同級生Kさんに誘われて、元日の9時すぎから登り始めました。
参加者はKさんと山岳会会長のMさん、それに私の3人だけです。
出発前、Kさんは「先頭で2人で歩くから、まあ、何もいらねべ」と言いました。かんじきやスノーシューは不要という意味でした。
2人は特に待つでもなくさっさと歩き始めました。私は、冬靴をはき、スパッツをセットし、ポールを用意しました。いちおう持っていこうと思い、スノーシューを抱えて後を追いました。
神社への登り道のわきからルートが始まると、すぐに膝ぐらいの深いトレースでした。それを一目見て私もスノーシューを履き、トレースを追いました。
人けのない整理された杉林の中に入りました。山の静かな空気に包まれると気持ちが落ち着きました。若いころは何の感慨もなく通り過ぎていた日本の山里の風景が、今はことさらに気持ちよく感じられます。
ルートが登りにさしかかった地点で、Kさん、Mさんはひと休みしていました。トップを歩いたKさんは少し上気した様子でした。休んでいる間に少しでもルートを進めておけばと思い、「先に行ってます。そこから左に上がればいいね」と言って先に出ました。
ルートには目印になるものは何もなくて、山道のある付近の上はそれなりの空間があいているので、そこを察知してたどるだけです。地形図も持ってきていましたが、道記号(破線=徒歩道)がついているわけでもなく、役に立ちません。しかし、地元でガイドをしているKさんは自分の庭のようにルートを知っているでしょう。
山道と思われる白い雪の帯が途切れ、左手のほうに帯が続いていると推測し、左折してそちらへ向かいます。そのルートが行き詰まった所でKさんを待ちました。
「ここで、えが(良いか)?」ときくと、「え(良い)。右行って、左な」とKさんが言うので、右折して斜め上に登り、さらに左折してジグザグに登ります。前方に行き詰まりそうな急斜面が見えてきたので、そこを避けるために、右折~左折を1回入れて、1段高いラインを行くように調節しました。
尾根上らしい所へ出て、右折してゆるやかになった稜線を少し登り詰めると、「窓」と呼んでいる展望台へ出ました。これで半分か、それ以上登ったことになります。「窓」からは阿仁前田の集落と阿仁川が眺められます。山々は雪雲におおわれて見えません。
M会長が先頭で登り始め、途中でKさんに代わり、私がいつでも交替できる気持ちで後ろにつきました。後から犬連れの人が追い着きましたが、お名前は不明です。山岳会の会員かもしれません。
稜線に出て風が強くなり、雪雲が切れて青空ものぞいています。立派な碑のある山頂に着きました。碑には「三吉神社」と刻まれています。
お神酒と餅、少々の料理を並べ、Kさんが持ってきたモロビの小枝に火をつけます。ろうそくではなくモロビを焚くのは、昔の信仰登山(森吉登山)でこうしていたという話です。だれも知らず、気にかけられてもいない、森吉山の信仰登山の史実も、調べて正式な記録として残しておかないといけないなぁと思いました(私たちが死ぬ前に?)。多くの人が作り上げた文化は、継承され、遺されてゆく価値のあるものです。
相当量のお神酒をいただきました。かたづけて下山にかかりました。多少酔いが入っていてもだいじょうぶな程度の小さな山です。
山を下りてから「クウィンス森吉」(阿仁前田駅の施設)に行って、2階の談話室で懇親しました。Kさんは地元の過疎化のことを話していました。私は県外者で、年に何回か訪れるだけですが、Kさんの考えることはよくわかりました。故郷がよい方向に進展してほしいといつも願っています。
[注1] 「前田富士」という名称は、今は統合でなくなった前田小学校(旧森吉町立)校歌の最初に歌われています。この校歌は「浜辺の歌」で有名な成田為三氏が作曲したものです。次のような詩です。
「前田小学校校歌」
昭和3年(1928)制定
作詞:高橋政和 作曲:成田為三
一.窓にそびゆる前田富士 軒端流るる阿仁川や
山うるわしく水澄みて わが学び舎の気高さよ
二.春はかすみの中をぬい 秋はさぎりの道をふみ
朝な夕なにいでいりて わが学び舎の懐かしさ
三.あゝ冬の日のろのほだ火 あゝ夏の日の冷風や
昼夜ここに集い来て わが学び舎の楽しさよ
四.われらが学ぶその心 われらが歌うそのひびき
みな山川にならいきて わが学び舎の悦しさ
五.清き風をば胸に吹い 強きからだを鍛えつつ
神のまなごぞ育つなる わが学び舎の厳しさよ